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第1話 七年目の食卓

Penulis: なつめ
last update Tanggal publikasi: 2026-07-10 02:00:08

 鷹宮家のダイニングには、銀器の冷えた光が満ちていた。

 長いテーブルの上に、白磁の皿が間隔を正しく置かれている。薄く削った白身魚の前菜。胃に負担をかけないよう、香辛料を控えた淡い色のスープ。脂を落として焼いた魚料理には、怜司が疲れている夜だけ好む柑橘の香りをほんの少し添えてある。

 どれも、詩乃が七年かけて覚えたものだった。

 怜司が眉をひそめない味。

 黙って箸を置かずに済む温度。

 仕事が詰まっている週に出しても、機嫌を損ねにくい献立。

 妻として愛された記憶は乏しいのに、夫の不機嫌を避ける方法だけは、身体に染みついていた。

 壁の時計が、静かに針を進める。

 九時を過ぎたころ、スープの表面に浮いた湯気はすっかり消えていた。燭台の火だけが細く揺れ、磨かれたテーブルに詩乃の影を落としている。屋敷の奥からは、使用人たちの足音が遠く聞こえた。誰も、詩乃に声をかけない。七年も経てば、主人の帰らない夕食を前に妻が一人で立っている光景など、鷹宮家では珍しくもないのだ。

 詩乃はスマートフォンを伏せたまま、指先でそっと撫でた。

 連絡はない。

 今日だけは、帰ってきてほしかった。

 結婚七周年だからではない。そんなものを怜司が覚えているとは、もう思っていなかった。祝ってほしいとも、贈り物が欲しいとも思わない。ただ、今夜だけは、話を聞いてほしかった。

 詩乃は、胸元に下げた小さなロケットペンダントを握った。

 中には、奏音の写真が入っている。

 五歳になる娘。詩乃の、ただひとつの光。

 鷹宮家には、奏音の存在を知らせていない。知らせられなかった。奏音が鷹宮の血を引くと知られれば、あの子は跡目争いや財閥内の争いに巻き込まれる。怜司の妻としてさえ尊重されない詩乃に、娘を守りきる力などなかった。

 それでも、いつまでも隠せるはずがない。

 最近の奏音は、父親のことを聞くようになった。

『パパは、ママのこと好き?』

 あの小さな声が、まだ耳に残っている。

 詩乃は答えられなかった。

 好きだった。

 少なくとも、詩乃は怜司を愛していた。

 父の負債を理由に鷹宮家へ差し出され、契約のように結ばれた婚姻だったとしても。夫婦の寝室に温もりがなくても。怜司が詩乃を見ず、鷹宮夫人という役割だけを求めてきても。いつか、いつかと、愚かしいほど静かに待ち続けてきた。

 けれど今夜、奏音のことを告げれば何かが変わるかもしれない。

 怖かった。

 怜司が顔色ひとつ変えず、「なぜ黙っていた」と責める姿が浮かぶ。鷹宮瑛子が奏音を値踏みするように見る姿も。けれど、奏音が父を求めている以上、詩乃だけの恐れで閉じ込めていてよい秘密ではなかった。

 その時、伏せていたスマートフォンが震えた。

 詩乃は息を呑み、急いで画面を見た。

 表示されていた名前は、怜司ではなかった。

「美琴……?」

 通話を押した途端、耳に飛び込んできた親友の声は、ひどく乱れていた。

『詩乃、落ち着いて聞いて。奏音ちゃんが倒れたの』

 詩乃の指先から、血の気が引いた。

「え……?」

『心臓の状態が悪いって。今、病院。救急で運ばれて、先生が処置してくれてる。私、そばにいるから。だから、早く来て』

 椅子の背に触れた手が滑った。銀のナイフが皿の縁に当たり、乾いた音を立てる。詩乃は返事をしたつもりだったが、喉から出たのはかすれた息だけだった。

 奏音。

 その名を胸の中で呼んだ瞬間、料理も記念日も、怜司へ告げるはずだった言葉も、すべて遠ざかった。

 詩乃はコートを掴み、ダイニングを飛び出した。

「奥様、どちらへ」

 廊下にいた使用人が驚いた声を上げる。別の者が、鷹宮瑛子からの伝言を口にしかけた。だが、詩乃は振り返らなかった。足元の絨毯が柔らかく沈む。長い廊下の灯が、走る詩乃の視界の端でいくつも伸びては流れていく。

 玄関の扉を開けた瞬間、夜気が頬を打った。

 冷たい。

 けれど、寒さを感じている余裕はなかった。

 病院へ着くまでの道のりを、詩乃はほとんど覚えていない。タクシーの窓に映る自分の顔は青ざめ、唇は色を失っていた。膝の上で握りしめた手の爪が、掌に食い込む。何度も美琴へ連絡を入れようとして、指が震えて画面を押し損ねた。

 病院の自動扉が開いた途端、消毒液の匂いが肺に入り込んだ。

 白い床。冷たい照明。遠くで鳴る機械音。誰かの咳。看護師の靴音。

 詩乃は受付で奏音の名前を告げた。声が自分のものではないように薄い。案内された小児病棟へ向かおうとした時、脇の廊下から看護師たちの小さな囁きが耳に触れた。

「さっきのご夫婦、すごくお似合いだったね」

「旦那さん、奥さんのこと、本当に大事にしてる感じだった」

 何気ない言葉だった。

 詩乃には関係のない、誰かの幸福の断片。

 それなのに、足が止まった。

 産婦人科の扉が、静かに開く。

 そこから出てきた男の横顔を見た瞬間、詩乃の呼吸が止まった。

 怜司だった。

 隙のない濃紺のスーツ。冷えた目元。いつもと同じ、感情を表に出さない端正な顔。けれどその腕には、詩乃が知らない柔らかさがあった。

 彼の隣にいたのは、芽衣だった。

 朔弥の婚約者であるはずの女。

 白いワンピースの上に淡い色のカーディガンを羽織り、芽衣は怜司の腕にそっと手を添えていた。細い指が、彼の袖を頼るように掴んでいる。頬は薄く染まり、伏せた睫毛が震えていた。

 医師が穏やかな声で告げる。

「妊娠初期は、どうか無理をなさらずに。夜の営みも、しばらくは控えてください」

 芽衣が恥じらうように俯いた。

 怜司は、ほんのわずかに顎を引いた。そして、芽衣の腹部を庇うように手を伸ばした。

 その仕草を、詩乃は瞬きもできずに見ていた。

 夫婦のようだった。

 誰が見ても、そう思う光景だった。

 七年間、詩乃が一度も向けられなかった温度が、そこにはあった。怜司の手が誰かを守る形を知っていたことを、詩乃は今、初めて知った。

 病院の廊下は白く明るいのに、詩乃の足元だけ影が深く沈んでいくようだった。奏音が苦しんでいる。今すぐ行かなければならない。分かっているのに、身体が動かない。

 怜司が顔を上げた。

 その視線が、詩乃を捉える。

 一瞬、彼の眉がわずかに動いた。

 驚きではない。罪悪感でもない。なぜここにいるのかと問うような、冷えた違和感だけがそこにあった。

 詩乃の喉が震えた。

「怜司、さん……」

 声は、白い廊下に吸われるほど小さかった。

 芽衣がゆっくりと顔を上げる。

 そして詩乃に気づくと、花びらがほどけるように、柔らかく微笑んだ。

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